『グラスリップ』最終話まで見終わって:考察と感想

2014年9月30日
【未来の欠片についての考察】

・最終話まで見終わって自分なりの解釈ができたので書いていきたいと思います。
主に未来の欠片についてで、透子の見る「雪」と「冬の花火大会」についても触れています

■未来の欠片とは何なのか
・超能力のようなもの。
心に不安感や問題を抱えているときのみ発現すると思われます。
思春期の夢想、精神病などの可能性も考えられますが、それでは透子と駆が同じものを見た説明がつきません。
超常的な現象と考えるのが妥当と思われます。

■未来の欠片で見えるものの正体
・本人(透子/駆)の願望と不安を表したもの。
未来という言葉に惑わされがちですが、あれはミスリーディングです。
そもそも未来と定義したのは駆で、透子は駆に未来の欠片という言葉を聞かされるまで未来だと考えていませんでした。
のちに駆自身も「未来じゃなかったのかもしれない」と自身の定義に否定的になっていいます。

・その正体は、未来の欠片を見た当人(透子/駆)がその時に抱えている願望や不安の表れです。
作中ではなく現実世界で例えると、受験の前に不安になって、「もしも落ちたらどうしよう→頭の中で、良い学校を出てないせいで悲惨な生活を送る光景を連想する」というようなことです。
「もしも落ちたらどうしよう」の部分が抱えている不安で、その後が未来の欠片で見えるビジョンにあたります。
逆にポジティブな例で言えば、「もしも落ちたらどうしよう→猛勉強したことを思い出して、合格する光景を連想する」のような場合もあります。
このようにその時の精神状態に合わせて内容が大きく左右されます。
以下に作中での例をあげていきたいと思います。駆は基本的に透子の声ばかり聞いていて、駆の心境自体もわかりづらいためここでは透子のみ取り上げます。

まずは序盤の例から、「線路の上に4人がいて、離れていく」という光景は別れを匂わせつつもはっきりしない内容になっています。これはいつか別れる日が来るかもしれないといった漠然とした不安で、そこまで深刻に考えていなかったから見えた光景も曖昧になっていると考えられます。

次に比較的ポジティブな幸関連の未来の欠片について。
入院している光景、幸と祐が談笑している光景を見ています。こちらは幸と祐についてはほとんど懸念材料がないため、楽観的な透子の性格が反映されて明るい光景が見えてます。

最後に不安の表れについて。
最も顕著なのが7話の浜辺で見た、やなぎから「お似合いのカップル」と言われ黒い鳥に襲われる光景と駆が落ちる光景。
実際にはこんな光景は一切起きず、やなぎとの仲も悪くなっていません。ただの被害妄想です。
この時点での透子は未来の欠片への不安、やなぎ・雪哉・駆のケンカなど周りの状況の変化についていけず妹に心配されるほど精神状態が不安定になっています。
不安が不安を呼び、どんどん悪化していく悪循環にはまっています。

・だんだん深刻になっていく透子とは対照的に、駆はだんだん未来の欠片を見なくなっていきます。
それは透子といっしょにいることで自分の居場所を感じ、精神状態が落ち着いていったからです。
透子は5人で集まることもなくなり、駆のことはどこか理解できず、自分の居場所を見失ってしまったのです。
恐らく透子と出会う前の駆もこういった心境だったのでしょう。

・このように見える光景は本人の精神状態が反映されていることがわかります。
ただし10話から登場した「雪」と12話の「冬の花火大会」は少し異なる存在です。
ここから先はほとんど確信がない私の仮説になります。

■雪と冬の花火大会
10話から降り始める「雪」、そして12話の「冬の花火大会」
その意味するものは”他人との境界線”だと私は考えます。
夏は楽しいもの、居心地の良い場所を表していると考えられます。そうなると冬はその逆の存在と考えられます。
相手を理解する道は険しく辛い。そして冬を乗り越えた先には温かい春と楽しい夏が待っている。
雪とはそういう意味なのだと思います。

・ここで大きなヒントになったのが透子以外の登場人物でこの雪が登場したシーンです。
それは11話で幸と祐が山登りに行き、下山している途中のことでした。
幸「私の声聞こえる?」
祐「うん、聞こえる」
幸「近くにいるのに相手が見えないなんて、なんか不思議じゃない?」
祐「さっちゃんから 、俺は…見えてる?」
幸「まだ… よく見えない」
(祐、悲しげに顔をそむける。祐のいるであろう方向をじっと見つめる幸)

このシーンで、祐が顔をそむける瞬間から雪が降り始めています。
11話は雪哉が初めてやなぎのダンススクールに見学に行き、幸が祐と二人で山登りに行った回です。
それぞれが相手のことを考え、相手のことを知ろうと真剣に向き合っていました。
素直に感想が言えた雪哉のシーンには雪はなく、まだ距離のある幸と祐の間には雪が降っています。
透子が雪を見始めたのは、駆のことを知りたい・唐突な当たり前の孤独のことを知りたいと強く思い始めたときでした。
雪哉たちのシーンに雪が降らないのは、雪哉が強化合宿に行って二人が離れてから再会するまでの間に考え、乗り越えていたからでしょう。
幸と祐も一度離れて見つめなおし、向き合おうとひたむきに努力してきました。
それに対し透子と駆は、一人で美術室に泊まろうとする・駆から一方的にピアノ演奏会を提案する(そのくせ駆は母親について行って街を離れるつもりでいる)とわかり合えているようで、まだ溝は埋まっていません。
最終回でとんぼ玉を必死に作っている透子のことを、透子の母親は「ここに来て大慌てで夏休みの宿題をやっているみたいだから邪魔しないのよ」と評していました。
この宿題が何を指しているのかは説明するまでもないでしょう。
それゆえに透子と駆の間の雪は、少しずつ距離を詰めていった幸たちとは比べ物にならないほど降っているのでしょう。

・二人の間の最大の壁となっていた「唐突な当たり前の孤独」、それを透子が理解したのが冬の花火大会です。
ピアノの演奏=音=駆の未来の欠片のファクターに駆といっしょに真剣に耳を傾けた結果、あの冬の花火大会が見えたのでしょう。
ただしこの花火大会には一つ視聴者が混乱する要因があります。
これまでは光景が見えるだけだったのに突然、平行世界のようなところに入ってしまったからです。
あれは平行世界ではなく、あくまで未来の欠片でしかありません。
あの光景には、未来の欠片のもう一つの側面が関係しています。キーワードは、最終話で駆の語った「見たいと思ったから見えた」です。
透子が心から唐突な当たり前の孤独のことを知りたい、そして駆の幸せそうな姿が見たいと願ったからそれまでとは比べ物にならない光景が見えたのでしょう。
冬の花火大会とは、唐突な当たり前の孤独を知りたい・駆といっしょに花火が見たい・駆が孤独を感じずに幸せそうにしている姿が見たい、という透子の思いが凝縮された光景だったのだと思います。


【最終回の私の印象】

・上記の考察がどういう視点から考えだされたのかヒントになるように、物語の結末が描かれた最終回に対する私の印象も語っておきたいと思います。

■透子と駆
・最後に駆がどうなったのか、意見が分かれるところだと思います。
私は3つの可能性が浮かびました。
 1)駆は街に残った。
 2)駆は母親について行き、街を離れた。(二人は別れた)
 3)駆は母親について行ったが、透子も駆もいつかまた会えると確信している。


・私は1か3だと思っています。
というのもあのとき透子に聞こえたのは”声”だったからです。
透子の未来の欠片は光景であって、声が聞こえるのは駆が近くにいるときだけです。
つまりあの声が肉声でも未来の欠片でも駆が近くにいると考えるのが自然です。これが1の根拠で、2を否定する理由です。

・ただもう一つの可能性もあると思っています。
それは離れていても二人の心がつながっているというものです。
見たいと思ったのが見えるのが未来の欠片なら、互いに声が聞きたいと思えば聞こえてもいいはずです。
たとえ離れていても思いでつながっていれば通じ合える、完全にファンタジーですが。
最後まで5人全員で再び集まることがなかったり、やなぎが卒業後に街を出ることになっていたり、グラスリップには「いずれやってくる別離」という要素も含まれていると思います。
それならラストには、このくらいのファンタジーがあっても良いんじゃないかなと私は勝手に思っています。

■やなぎと雪哉
・この二人が向き合っているのは確かだと思いますが、行く末がわかりません。
わかりあったから好きになるのか、わかりあったから恋人ではないのか、それともお互いに相手を思っているから相手の夢を邪魔したいと思わないのか。
やなぎが卒業したら街を出る(恐らくモデルになるため)ことは最後まで否定されませんでした。
最後のカットに電車に乗っている光景がわざわざ入れてありました。
電車に乗るのはダンススクールに通うためです。旅立ちの暗示もあると思います。
少なくとも一旦離れ離れになるのは確実だと思います。
そこから先は思い思いに想像するべきなのでしょうね。

■幸と祐
・この二人は間違いなく両思いだと思います。
最後の二人のシーンでこれでもかと畳み掛けられていますから。
11話では「今は見えない」だったのが、ピントが合って「見えた!」
幸が言った「私…透子って名前好き。でも…祐って名前も大好き」(3話で祐が言った「幸って…名前好きです」という告白未遂への返答)
(飛び去る一羽のスズメと台詞が言い終わったときに舞い降りる二羽)

これで幸が好きなのが透子だったら監督を殴りに行きますよ。
個人的には透子の両親の馴れ初めの「あなた、とても一生懸命で、私…ほだされちゃった」もこの二人のことなんじゃないかなと思っています。

■最終回全体の印象
・これから先のことは、校庭での透子と雪哉の会話に全て詰まっていると思いました。
「変わらないようで変わっている」
でも人は急に変わったりはしません。
恋愛模様で5人の関係が既にばらばらになったように、状況も人も水面下ではいつも動いているものです。
透子も雪哉もそれに気づけるようになった。それは前進している証拠です。
そしてその後の透子の「未来の私がぜ~んぶ解決してくれますように!」
1話の花火大会で叫んだのと同じ言葉ですが、込められた意味は全然違います。
今の透子にとって未来とは自分が望み、進んでいった結果のことです。
今はできなくともそのために努力していこうという決意が込められています。
元々は祐から聞いた言葉でしたが、受け売りなんかじゃない透子の言葉に感じられます。
6人ともまだまだ問題にぶつかっていくのでしょうが、きっと大丈夫なのだと思えるシーンでした。


コメント

2 件のコメント :

  1. 似たような感想に出会えて嬉しいです。
    私は、透子とカケルは別れたのだと思います。なぜかというと、そのように考えないとカケルが救われないからです。
    カケルにとって最大の問題は「唐突な当たり前の孤独」の解消です。これを「友達が出来ても自分はすぐに他の場所に行ってしまってどうせすぐに忘れられてしまうのだ」という意味に言い換えていますね?
    しかし、最終話ではカケルのことを覚えてくれている人がいるわけです。それを保証するのが透子が聴く「カケルの声」という「未来の欠片」です。もし透子がカケルを忘れていたら、カケルのことを想うはずがないはずですよね?
    つまりこれは「互いに別れても忘れられない存在でいられるか」がテーマなので、だからこそカケルと透子がいつまでも一緒に居ても意味がないのです。
    そして、最後のガラス玉は流星群の日に二人で投げたガラス玉が森の中に残ったものです。このガラスが二人をつなげているし、森は二人にとって「一緒に過ごした忘れられない場所」なのです。12話で透子は「4人と一緒に過ごした忘れられない場所をもっていない」ことに気づきましたが、ようやく誰かと一緒に過ごした大切な場所を持てたわけです。だから1話のように「いつまでも友達がいい」状態から「一人でも大丈夫」なように人間的に成長したわけですね。

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    1. 私も最後は離れ離れにならないと不自然だろうと思いました。
      関係性は変化しいつまでも同じではいられない、そしてそれは不幸なことなんかではないと描いてきたのですから駆と透子の関係性が変わらないということは考えにくいと思います。

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