輪るピングドラム 第23話」感想 『亡霊の箱:人の輪』

2011年12月18日
眞悧にとって世界は『箱』か。学校や友だち関係で箱の形に合わされていき、やがて箱に入った人だったものが箱として並べられ敷き詰められていく。規格化された社会では形が合わない規格外品は無用のものとして扱われる。それが我慢ならなかったんだね。
眞悧は器がちっちゃい。でもそこが良いね。そういう人間だからこそ今をぶっ壊そうって発想が生まれるんだ。全部を変えられるとは思わない。でもやらなきゃ何も変わらない! そういう義憤に駆られる気持ちはわかるなぁ。私自身、眞悧に親近感が湧いちゃうような人間だから、どうも晶馬より眞悧側に気持ちが行ってしまう。

眞悧が死んでも求めて止まないもの、桃果。自分と同じ世界を感じ、見れる唯一の存在。しかし桃果は眞悧を徹底的に否定した。眞悧は裂かれて闇ウサギになっても自分を正当化し、無力化した桃果に自分を認めさせようと必死だ。だが手段として使っている組織は全員同じ格好で没個性的。身代わりとして育てた冠葉は後継者ではなく、ただの打算で従っている奴隷に過ぎない。本当に眞悧はダメ人間だ。

対する桃果ちゃんは気に入らない人間に面と向かって『闇に追放する!』なんて言っちゃうヒトラーもびっくりの過激派美少女。だが眞悧と決定的に違うところは、規格外の人間もそのままの姿で肯定していることだ。それもただ『いてもいい。』と認めるのではなく『愛してる。』と言ってのける。必要だ。でも、価値がある。でもなく、ただ愛してくれる。誰にも受け入れられないと思っている人にとって何より響く言葉だと思う。必要とかすごいって言われることは肯定には違いないけど、それは”存在”を肯定しているだけ。自分は自分として持っている人にとってそれは救いにはならない。その自分を受け入れてくれる場所こそが必要なんだ。それを一言でやってのける桃果ちゃんはまさに救世主だ。全てを肯定する気持ちこそが桃果のピングドラムなのかな。

・アニメ批評ブログ「失われた何か」を書かれているおはぎさんの下記のつぶやきを見て思いついたことがある。

輪るピングドラム23話。本作はロールキャベツを含め丸・円・球という「輪る」モチーフを徹底的に描いてきたが、その裏では対となる、長方形・四角・箱のモチーフも描いてたのが、サネトシの一連の「箱」発言でわかる。

眞悧にとって電車は人を都合の良い形に押し込め運んでいく『箱』であり、桃果にとっては『輪』を描いてつながった駅をつなぐものと認識してるように思える。
確かに電車と言えば通勤時間帯の満員電車があるように社会の歯車だ。決まった人数を乗せ、決まった場所を毎日正確な時間で往復する。その点では眞悧の考えも理解できる。
一方、桃果的視点から見ると、駅は多くの人が様々な目的のために集まる入り口であり出口でもあり、また経過地点でもあり、目的地でもある連続したつながりを持つ場所のようだ。確かにピンドラの本編を通しても電車や駅は重要な役割を果たしてきた。多葺のストーカーだった苹果をつけ回すことにも、晶馬と苹果の対話の場としても不可欠な存在だった。だから眞悧は電車を破壊しようと試み、桃果は命がけで止めようとしたのだろう。

今までの流れを踏まえると、家族や恋人、血縁関係など”他者とのつながり”がキーワードになりそうだ。眞悧はCパートが表していたように箱に入ることで誰とも触れることもできなくなり、やがて自分も見失ってしまうと考えた。だから箱=社会を破壊することでそこから解放されたいと願った。EDの闇ウサギの会話から察するに自己顕示欲も相当混ざってるみたいだが。誰かに認められようにも箱があっては実現しえないことだ。
それに対し桃果や晶馬、それに苹果は世界は変えていないけど、身近な人と関わりを深めて救い出して/救われてきた。苹果はずっとたすけてくれた晶馬のために動いてきたけど、23話では妹の陽毬を助けたいと願い、身を呈してまで日記を守ろうとした。そうして段々つながりが広がっていく。
ピンドラが群像劇だったのはその広がりを描くためだったんだね。

個人的には最終回で一番期待してるのはマリオ周り。ペンギン帽を持ち、話の中核に位置してるのに全く描かれていない。他人との結びつきが救いになるのならば、兄妹だけど小さい頃に別れてしまったマリオが冠葉の救いになれるかもしれない。ピングドラムを廻る争いが終わった後、再開して、一言『お兄ちゃん、僕達のためにありがとう。』と言うだけで冠葉が立ち直るきっかけになってくれる。そう願ってやまないよ。

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