『エミール』から読み解く『さよならララ』最終回まで見終わって:総合感想

2026年9月29日
 オリジナルTVアニメ『さよならララ』を最終回まで見終わったので全体の感想を書きたいと思います。
*必要に応じて随時ネタバレがあります。




序盤は手放しに楽しかった

・1話完結でサクサク進む序盤は楽しかったです。
1話ごとに明確な始まりと結末があり、マリ相手なら友愛や家族愛、ヒメカ回では共感や他人を通じた自己の客体化、バイト回では自己の相対化や自分のやりたいことのプチまとめとテーマである「本当の愛を見つける」ことに通じるように思える内容がありました。
1話ごとに様々な「愛」が感じられる内容は思っていたよりも展開がスピーディーで、このペースで進むならテーマに関する掘り下げも期待できると思っていました。

・アニメーションや演出も素晴らしかったです。
1話冒頭で生まれたての赤ん坊ララが魚を頭から食いちぎるシーンはほのぼのした情景からの微グロに予想外の内容にドキっとしましたし、その後のララの口の中に指を入れたお姉ちゃんも指を食いちぎられていないかと注視させられました。
幻想的な海の光景や1話ラストの琵琶湖から飛び出すララ、3話での魚ナイフ出現時のスペクタクル、対象的に抑えられ登場人物の心情を映し出した叙情的なシーンなど派手なだけではなく様々な方向性でカットが決まっていました。

・デザインも良かったです。
90年代アニメみたいな古めの絵柄と濃い実線がまず目を引きましたが、表現の仕方が何より良かったです。
アニメらしい崩しから、思わずゾッとする鱗の生えたリアル調の人魚の足や謎の花からモーフィングして生えてくる蛙みたいな物体など表現の幅の広さが面白かったです。
ゲームが辿った道ですが、創作物でリアルを追求すると幅が狭いんですよね。古めな絵柄に馴染みが有るとかいう以上に、個人的にはやっぱりこういう表現の方がアニメは向いてると再確認できました。


中盤からは尻すぼみ感が強かった

・ルカが登場した7話からは一転して展開が停滞していったように感じました。
延々と「本当の愛が手に入らない…」で終わる空振り展開を繰り返し、登場人物も嘆いてばかりになり、面白くなくなりました。
台詞の多いリサとローワンが同じことしか言わないことが厳しかったです。
毎回「使命を果たせ。本当の愛を見つけて同胞を救え」「人間は汚らわしい種族」しか言わず、なぜ人間を嫌うのか、なぜ「本当の愛=人魚同士」という概念が正しいと思うのか掘り下げがなく、進展がありませんでした。
二重に展開が停滞していてうんざりしました。
主人公サイドのララやマリ、ルカたちもずっと同じ問題で悩み続けて足踏みを続けていたので雰囲気がどんよりしまくりでした。
11話でようやくグレイスの話が見れたと思ったら、リサやララの話の間の子みたいな内容でこれまた肩透かしでした。

・個人的には「本当の愛がそんなものなわけないだろ」と登場人物の言動を全く信じる気になれなかったので余計に深刻でした。
挫折や徒労的な内容がストーリー上で必要だったことは理解できますけど、退屈さは許容できません。
ララ以外は全員本当の愛獲得に失敗して種族が滅びかけてるリサたちの主張には信憑性が感じられず、ララもなぜそこまで言われるがままに流されているのかピンと来ず、なんでこういう流れになっているのかついていけないところが一番辛かったです。


オチは納得が行かなかった

・オチも私にとっては物足りない内容でした。
ララが因習を捨て、確固たる自我を持って自立して生きていくこと自体は有りだと思います。
しかし「本当の愛」が具体的に描かれずに終わったことは納得が行きませんでした。
ここまで「本当の愛」を掲げて、様々な愛の形を描いてきたのに、結論は具体的には無いというのは不誠実だと思います。

・本当の愛に絶対の答えがあるとは思っていません。
「それはケースバイケース! 人と状況によって無数にあります」にしても
「ララにとっての本当の愛とは何か?」ははっきりして欲しかったです。
独善的でも特殊なケースでも何でも
「うるせー!! これが私にとっての本当の愛だ。外野は黙ってろ!」と言い切るだけでも成立するのにそれすら見ることは叶いませんでした。

・私は自分らしく生きることと愛することは相反しないと思います。
「掟だの伝説だので語られた”本当の愛”なんてどうでもいい! そんなもの私は求めない。だがそれはそれとして愛する人がいることは人生を豊かにする(地上に出てからのララやグレイスがそうだったようにね)」
は全然成り立つでしょう。

・魚ナイフに飲み込まれた後のララの
「卑しくて矮小で…アホで迷惑で大馬鹿者の人魚。でもそれが何?!馬鹿にしないで!」
という台詞は、単語のチョイスも声色も段々と「特別なプリンセス」から「マリが好きだと言ったアホのララ」へと変わっていくことが表現されていてとても良かったので物語の都合が出過ぎているように感じる結末は余計にがっかりしました。


ラストは特に納得が行かなかった

・ララが一人暮らしを始めるラストは突拍子がないように感じて全然飲み込めませんでした。
2人がずっと一緒にいなければならないとは思いません。
いずれ道が分かれることもあるでしょうし、それが決別を意味するとも思いません。
その程度で2人の絆は切れないでしょう。

・ですが”今”では無いと思いました。半年でそうなるとは思えませんでした。
マリはララといることを明らかに望んでいますし、ララが半年で独立できるほどの生活力や一人で社会生活を送れるだけの常識を身につけられるとも思いません。
何よりも人間で考えても16歳くらいの子供が一人暮らしをしようと思うことは少ないと思います。不安や目に見える困難が多いですからね。
マリの家に就職したり行動範囲を広げたり徐々に広げていく手もあったのに、ララがなぜ一人暮らしをすることにしたのか、ララの考えや気持ちが全然掴めませんでした。
個人的には自立する云々で言うならば今の自分にできることできないことを正しく把握したり、目標に一直線に向かうのではなく現実的な筋道も考えられるようにならなければいけないと思います。
地に足がつかず、無謀な挑戦をしているばかりでは自立したとは呼べないでしょう。
スローペースから打って変わってだいぶ話が飛躍しているように感じて話についていけませんでした。


『人魚姫』を教え導く『エミール』の『キリスト教』添え

・いくら自分で考えても最終回の別離に納得の行く答えが見つけられませんでした。
そこで古典的な考察仕草に則って、答えを作品の外に求めてみようと考えました。
そこで手がかりとしたのがグレイスが引用した本『エミール』です。
「人は二度生まれる。一度目は存在するために。二度目は生きるために」
という、グレイスが何度か繰り返し言っていたフレーズはフランスの思想家ルソーの著書『エミール』で有名な言葉です。
そこにさよならララの内容をつなげる軸が有るかもしれないと考え調べてみることにしました。
私はエミールを読んだことがないのでざっくり概要を教えてくれるサイトはないかと探してみたらこちらのサイトを見つけました。
解説を読んでいて驚きました。さよならララの最終回の内容そのままだと思ったからです。

 ルソーは、人間の最も根源的な感情は「自己愛」であると言います。そしてそれは、自己保存を可能にするがゆえに、本来的に「よい」ものであると。
 そしてわたしたちは、この「自己愛」をもとに、身近な人びとへの愛も育むのです。
 ところが、もしわたしたちが子どもに服従を強いたり、誰かと比較したりばかりしていると、「自己愛」は捻じ曲げられ「自尊心」になってしまうとルソーは言います。
 自尊心、それは、自分は他の奴らより偉いんだと思いたがる感情です。
 服従や比較が、そうした捻れた感情を生んでしまうのです。
 自尊心は、基本的にはいつまでたっても満たされることがありません。だから自尊心の人間は、いつまでも不幸な人であらざるをえないとルソーは言います。

・この段落はララや人魚族の話そのものですよね。
ララには自己愛が足りていないから本当の愛を見つけることができる段階に達していなかった。
自己愛に目覚めたから自己保存できるようになり、最終回では泡になることはないし、人として生きると自分で決めたから足や耳も人間のものになる。
これまで自己愛に目覚められなかった理由はローワンやリサなどに人間に関する悪意や「特別なプリンセス」など捻じ曲がった思想を植え付けられていたから。
人魚族は自己愛ではなく「人間は下等で人魚こそが正しい存在」という「自尊心」ばかりが肥大化しているからいつまでも不幸なままでいる。

・他にもララの内容に当てはまる内容がいくつも見つかりました。

「消極教育」:あれをやれ、これをやれと大人が子供に指示過ぎてはいけない。自発性に任せるべき。
 →頭ごなしに掟で縛り、憎しみを伝播させようとするローワンたち人魚族。

 ローワンとは違うベクトルだが人間との愛こそが本当の愛だという自分の思い込みをララに吹き込んだグレイス。


「たくさんの知識ではなく、正確な知識を」「実物教育」
 →ララが地上に出て自分で感じて学んだことがララを教え込まれた呪いから解き放ち、正しい方向へ進む道筋になったこと。


「理性はわたしたちを欺くことがある。しかし良心はわたしたちを欺かない」
「人は自然において平等」
 →最後にララを正しい方向へ導いたのはマリへの思いであり、「本当は何がしたいの?」という良心からの問いかけ。

 ローワンたちを誤った方向へ導いたのは人間への恨みに因果関係を求めた理性。

 グレイスを誤った方向へ導いたのは「私が地上に出たことには意味があったはずだ! 人間との愛こそが『本当の愛』に違いない!(そうでなければ何のためにリグモアは殺されたのか!)」という物事に意味を求めようとする理性の産物であり、打算なく良心で動いたマリとの出会いで部分的に救われた。


「自由意志によって善をなすわたしたちを、神は幸福にしてくださるのだと」
 →人魚族を照らす光の真相。


そして『エミール』に着目したきっかけであるグレイスの引用したこの言葉
「人は二度生まれる。一度目は存在するために。二度目は生きるために」
この意味は、
「一度目は生物として生まれいずること」
「二度目は自我に目覚め、自分が自分であるアイデンティティを自覚すること」
「あるいは”人類”というただの生き物から”社会の一員としての人”に変わること」
を意味していると解釈されることが一般的なようです。
これもまんまララの道筋ですよね。特別なプリンセスとして生まれたララが、ただの人になるまでの物語でした。

・ラストのララの別離に関しても関連性が見いだせました。
『エミール』において教え導かれた少年エミールはソフィーという女性と恋をし、最後は結婚しました。
しかし結婚する前に客観的に考えるために一度離れ、2年間各地を旅して周り、その上でやはりソフィーと結婚しようと考え、ソフィーの元に戻って結婚しています。
エミールの解説を読んでいて一番腑に落ちたのはここでした。
だからラストに無理やりにでもララとマリの別離をねじ込んだんでしょうね。


マリの立ち位置

・上の話には出てこなかったマリに関しては『エミール』関連で紐解くなら、
「哀れみと共感」を体現した存在
なのかなと思いました。

「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ。」
「第一の格率 人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。」
「第二の格率 人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。」
「第三の格率 他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。」
とエミールで説かれています。
マリは生物としては強者であり同じボクサーにすら一切共感や理解を示しませんが、孤独で誰にも顧みられずに死にゆくグレイスやララには死んだ母親を重ねて深く同情し献身的に助けようとしました。

・『エミール』とは関係ないのですが、個人的な直感では「キリスト教」の要素も取り入れてあるのではないかと思いました。
マリの家が教会だったり、母の形見が十字架だったり、一見すると必要性は無いしマリの祖母以外は熱心なクリスチャンというわけでもないのにキリスト教の要素が散りばめられています。
「汝隣人を愛せよ」
という聖書のフレーズは有名ですが、この言葉は厳密には
「自分を愛するように、隣人を愛せ」
が正しい切り分けです。
このフレーズもまさにさよならララの話そのままであり、『エミール』とも符合する部分ですよね。

・最終回でララの元に赴いたマリが言った「私たちは誰かを愛するために生まれてきたんちゃうん?」も、
 ヨハネによる福音書 15:12 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」

を反映した言葉であり、終盤のマリの行動自体も、
 ヨハネによる福音書 15:13 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
という意味が込められていると考えると足りていない文脈にマッチします。

・こうした理解を踏まえると、
さよならララは『人魚姫』というよりも『エミール』の思想を体現するお話
だったのではないかと思いました。
「本当の愛」も主題そのものではなく、人の執着や思い込みをいかにも正しいものであるかのように描くための釣り餌で本題ではなかったのではないでしょうか?


それとこれとは別だ!

・というわけで『エミール』とキリスト教を基盤にして考えたことで最終回も含めて物語の内容に関してはだいぶ納得が行きました。
なるほど、そういうお話だったんですね。
…
…
正しい理解と俺がこの物語に納得するかは別問題ですけどね!
俺が見たかったのは「本当の愛」に関するお話であって「人魚姫はエミールを読め」というお話じゃないんですよ!!

 いや、だから本当の愛は方便みたいなものでそこにこだわるのは間違ってるんですよ…
とでもスタッフは言いたそうですけど、視聴者にとっては順序が逆なんですから。
スタッフは『エミール』を前提に逆算して話を組み立てていても、私が最初に惹かれたのは本当の愛のスケール感やララたち等身大の人物がどうそこに向き合っていくかの物語の方なんですよ。
個人的には前半のヒメカやバイトのエピソードの方が好きだったので、あの調子のままララたちがマイペースに進んで「人魚族の使命なんてもうどうでもよくなっちゃった! これからも人間界でがんばって生きていきます!」で後半も進んで終わっても良かったんですよ。
ほぼミスリードのためにリサの回想に丸々1話割いたり、終わってみればかなり都合の良い善人になっちゃったルカを出しておいて、今更「本当の愛は主題じゃないんで」と言われても納得が行きません。
本当の愛の形に納得が行かないなら価値観の違いで済ませられますけど「本当の愛の話ではありませんでした」は飲み込めません。
見ている側すればそれこそ「『本当はエミールなんで』とか、そういう話をこっちはしてないんだよ…」って話になっちゃいます。


肩透かしには変わらない

・本当の愛とは隣人愛か家族愛か、博愛か?
それとも泡になるとか自己犠牲的な話が前提にあるから自分を慈しむ自己愛こそが本題かな?
キャラ中心だけどキャラクターに普遍性は弱く、個性的だから「これが私が思う本当の愛だ!」でも通りそうだな。
魚ナイフは「愛の持つ加害性や独占欲(ストーカー、執着、束縛などなど)」など負の側面も描くための小道具か?
なんて事あるごとにいろいろ考えていたのに、私の思いはどこにも行き着く先が無くなってしまいました。
私がララだったなら、この報われなかった思いが魚ナイフになってスタッフの頭上に浮かぶことになりそうです。

・途中まで意味ありげに描かれてきたララの心が動く度に明滅する謎の光とか何だったんでしょうね?
いったいどういう法則性があって、どういうものなのかと真剣に考えていましたが、本編では結局謎のファンタジー現象みたいな扱いで具体的な条件やどういう存在なのかがわからないままでした。
唯一の過去の成功例であるララ母が人魚族同士で結ばれて発生させた上に、ララ母が何を考えて、どんな人物だったのかも不明瞭だったので参考になりません。
人魚族同士でもOKならローワンでもララの姉たちでも誰か本当の愛扱いになるやつはいそうですし、個人間の思いでOKならリサとコータも充分愛し合ってると思うんですよね。
「特別なプリンセスでないと光は出せず、特別なプリンセスは同時代に一人しか現れない」のかとも考えましたけど、グレイスも魚ナイフは出せてるんですよね。
魚ナイフと特別なプリンセスがセットなのか違うのか、それすらよくわかりません。
ララの方もローワンたちの思いには背いたものの、光自体は少しは与えられたみたいだったので余計に謎が深まりました。
あれは「何年でも諦めずにお父様たちと話し合っていく」とララが語っていたように、ララが完全に人魚族を見捨てたわけではなく、ある程度の思いやりはあったから即効性は無いけれど光は与えられたって理解でいいんでしょうか?


煮えきらない内容で終わってしまった

・前半は期待していて、後半は失望気味だったんですけど、意味自体は理解できた気がするので最終結果としては何とも煮えきらない心境になりました。
「思ってたのと違った」であることは確かです。そこは裏切られた感じは否めません。
ですが路線転換とか放り投げではなく、スタッフにはスタッフの論理があってやったことなのだろうとは思えました。
だからと言って、そういう物語として受け入れることはできませんでした。
求めていたものとは違ったからです。
最初から「これは自我の芽生えにまつわるお話で、本当の愛は主題ではありません」と提示されていたら毎回楽しめたかは怪しいと思います。
この部分はスタッフとの間に明らかな断絶を感じるので作品全体を肯定する気にはなれません。

「悪いところ」はそんなに無いけど、「合わなかった」と感じる部分は中核部分にそれなりに有る。
でも「面白かった」「好きだった」と思える部分も充分有る、
「愛憎」と言うほど憎しみはないのでちょうどいい言葉が見つかりません。
一言で表すとしたら「残念に思う」という言葉でしょうか。
期待どおりに本当の愛についてのお話だったなら私にとっては良かったでしょう。
スタッフの考えた内容のままでも、脈絡がちゃんとわかる形で有って、話のペースを上げて内容を深く描けていたら印象は違っていたかもしれません。


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